2003年12月1日月曜日

戦後日本システム崩壊の前兆(1)地下鉄サリン事件=霞ヶ関支配の終焉 2003.12.X 初出

90年代後半から、一年に一度は
訳の分からない事件、のニュースを聞くようになり
98~2002年にかけては、
それが、三ヶ月に一度、になり
2003年になってみたら、一ヶ月に一度
いや、一週間に一度、は
訳の分からない事件、のニュースを聞くように
なってしまいました。

こういった、訳の分からない事件、の
流れが始まった90年代後半の象徴的な事件として
僕は3つ記憶しています。
地下鉄サリン事件、ヒ素入りカレー事件
サカキバラ事件、です。

先日読者の方から、大阪河内長野家族殺傷事件、について
どう思いましたか、という質問を受けたのですが
あの事件も、死ぬ前に殺してみたかった、という発言に
見られるように、訳の分からない事件、でした。
90年代後半から始まった
こういった、訳の分からない事件、の流れを
自分なりにまとめておかないと
混乱してしまいそうなので
その背後にあるものを、僕なりに探っていきたいと
思います。

今回はまず、地下鉄サリン事件、について
僕なりにまとめてみたいと思います。

僕が子供の頃、つまり1970年代から80年代に
かけては、異常なオカルトブームでした。
UFO、超能力、ニューエイジ
といった分野のものが凄い人気だったのです。
その行き過ぎたオカルトブームへの反省から
オカルト的書物に、トンデモ本、とレッテルを貼って
排斥しようとするムーブメントも起きてきたような
気がします。

そういった中で、ノストラダムスの大予言、というものが
注目されていて、199X年の7の月に世界は破滅する、と
されていたような気がします。
僕の周りにも結構信じている人がいました。
僕も2000年を迎えた時、あれ、恐怖の大王が
降ってこなかったな、と思ってしまったのを覚えています。

僕が今にして思うのは、そういった異常な
オカルトブームというのは
高度経済成長以後の日本社会が、なんらの理念なり
形而上学なりを持たないまま
GNP信仰の下で、都市化・近代化ばかりを
進めていったことに対するカウンターカルチャーだった
のではないか、という事です。

何らの理念も、形而上学も示されないまま
世の中がどんどん都市化していく。
それにともなって急速に街が明るくなり
綺麗になり、快適になり、よりオシャレになっていく。
そういった事に対して耐えられない若者達の
中世の闇、或いは、宗教的世界観への回帰願望
だったような気がするのです。

近代化・都市化は、合理化・効率化・数値化によって
世の中をどんどん機能的にしていきますが
人間は、道理にかなう事、効率のいい事
数値化できることだけで生きていけるものではありません。
人間には、形而上学的欲求、があります。
つまり、神とは何か、この世界とは何か
愛とは何か、死とは何か、自分の使命とは何か、という
問いの答え、意味づけ、を誰もが欲しているわけです。

政府が、理念なり、崇高な使命感なりを示した上で
近代化・都市化・経済成長を進めていくのなら
よかったのでしょうが、高度成長以後の日本社会は
そうではなかった。
戦後復興型の、土建国家体質、のまま
イケイケドンドンでバブル経済に突っ込んでしまいました。

日本国憲法、はありましたが
右側の人が、しょせん占領軍の押し付け憲法じゃないか、と
言ってみたり
左側の人が、いや世界に例をみない平和憲法であるぞ、と
言ってみたり
学校の先生が、日の丸・君が代はいけない、と
言ってみたりと
なんだか、不毛、とも取れそうな議論を繰り広げた挙句
気がついたら憲法論議は、タブー、になってしまって
経済成長してるからまあいいか、という事になって
しまいました。
現在国会で憲法改正の動きが出てきたようですが
僕は単に、経済が回らなくなったからではないか、と
疑っています。

国会がそんな感じで、何らの理念も
崇高な使命感も世界観も示せないまま
或いは議論さえしないまま
霞ヶ関の高級官僚主導の政策で
経済成長・近代化・都市化に
突き進んでいってしまったために
バブル期の日本社会では、ほとんどの人が
成金、のような醜態をさらす事になってしまいました。
政治が機能していれば
バブルで泡のように生まれて
泡のように消えていってしまった大金を
有効な投資に回すこともできたはずです。

理念、も、崇高な使命感、も
何らの世界観も持たなければ
それは、個人であれ、国家であれ、
いくら金を持っていたとしても、成金、なのです。
成金は有難がられることはあっても
尊敬されることはありません。

先日アメリカ高官が、イラク復興に対する
日本の援助を引き出すために
日本はATM(現金自動引き落とし機)ではない、と
リップサービスしたそうですが
日本はATMではない、という言葉がリップサービス
となるという事は、今までATMだと思われて
いたという事です。
何だか、援助交際、の原因も
この辺にあるような気がしてきました。
子供は大人の姿を見て育ちます。
カラオケに付き合って、2.3万円のお小遣いをくれる
オジサン達を、女子高生達はATMだと思っているはずです。
オジサン達にも多少やましい気持ちはある。
そうなると、これは、少女売春ではないのだよ、という意味で
ポップなイメージの、援助交際、というリップサービスが生まれる。
日米関係と構図は似ています。

地下鉄サリン事件の話をするのに
どうして戦後政治の話をしているのかと
いうと、これは結構大切な事だと思うからです。
政治が、理念、も、崇高な使命感、も
世界観、も指し示す事ができなければ
企業も学校も家庭も
理念、を持てないからです。

政治が、理念、も、崇高な使命感、も示さなければ
企業は金儲けのことしか考えません。
学校でも偏差値でしか子供を判断できません。
家庭でも偏差値でしか子供を判断できません。

でも、オウム真理教の麻原彰晃氏は
国も企業も学校も家庭も示してくれない
理念、なり、崇高な使命感、であるなり
形而上学的保障、なりを与えてくれたのでは
ないかと思うのです。
例えそれが間違ったものであったとしてもです。

そしてオウム真理教は、霞ヶ関、へ突っ込んでいきました。
地下鉄サリン事件、は、その意味で
とても象徴的な事件でした。
霞ヶ関、は、戦後日本を支配してきた
高級官僚達の砦です。
戦後の日本社会を動かしてきたのは
永田町、ではなくて、霞ヶ関
政治家、ではなくて、高級官僚、だったのです。

オウムの信者になった人達はきっと
戦後の日本システムに打ち捨てられた人達だと
僕は思います。
オウムの信者に信じられない、高学歴、の人が
多かったのは何故だ、などと驚いて
いた人達が大勢いましたが、そもそも
偏差値の高い人を学歴のある人、としてしまう
共通一時に始まる戦後の教育システムが間違っていたのでは
ないかと思ってしまいます。

中国の高級官僚登用制度、科目による選挙
科挙制度を模した、受験教育は
暗記王、偏差値マシーンを作るだけのような気がします。
そしてそういう人が、学歴のある人、として出世してしまう。
受験戦争の弊害については、このエッセイでも
度々書いてきました。

僕は最後の受験世代なのでよく分かるのですが
数学を学んで論理の不思議に思いを馳せたり
物理を学んで宇宙の不思議に思いを馳せたり
国語を学んで言葉の不思議に思いを馳せたり
歴史を学んで人類というこの不思議なものに
思いを馳せたりしていたら、まず高い偏差値は
取れませんでした。
子供は、何で、何で、とよく聞きますが
その、何で、何で、が学問の始まりであるはずなのに
何で、何で、などというのはいいから
とにかく覚えろ、というのが受験勉強でした。
クイズに近かったような気がします。

そういった、世界一歪んだ教育、と言われる
受験戦争、を見事勝ち抜き、暗記王、偏差値マシーン、と
なってしまった人間が、ふと、俺の人生なんだろう、と、
形而上学的問い、に取り付かれてしまった時に

心の隙間お埋めします。
我こそはグル、尊氏であるぞ、とささやく
なんだか今までの、社会の敷いたレール、の上では
見たこともない長髪のエキセントリックな中年男に
出会ってしまったら
全てを投げ捨てて帰依してしまいたくなるのは
目に見えています。
そして、サリンを撒いて来い、と言われても
ヤバいのでは、という危機感も持てなくなる。

だから言ったでしょう。鈴木さん。
ヨーガ道場に通うのもいいですけど
週に2回までにしてくださいね、と。

そんな……あんまりじゃないですか、喪黒さん。

ド~ン! 

統一教会が話題になっていた時も
どうしてこんな高学歴の人達が、と
いろんな人が驚いていましたが
事情は同じだと思います。

オウムは国政選挙にも出ようとして
失敗していましたが
結局、オウムに集まっていたのは
霞ヶ関の高級官僚主導による戦後システムに
打ち捨てられた人達なのだと思ってしまう。
オウムは、内閣を模してそれぞれに
大臣、を設けていましたが、あれも象徴的でした。
オウムを生んだ遠因には、高級官僚主導による
戦後システムの歪みがあると思う。
戦後の日本社会を動かしてきたのは
永田町、ではなくて、霞ヶ関
政治家、ではなくて、高級官僚、だったのです。
そしてオウムは、霞ヶ関、へ突っ込んだ。
高級官僚に仕事を全て預けて
黒い金で、ゴルフや芸者遊びに精を出していた
自民党の古老政治家達に、地下鉄サリン事件の
遠因があると思います。

これはあまり認めたくないことなのですが
オウムの信者には、このエッセイにも
度々登場する80年代に一世を風靡した
ブルーハーツというパンクバンドのファンが
多かったと言われています。

7%理論のエッセイにも書きましたが
80年代の日本社会は、博○堂、や、電○、といった
大手広告会社の振りまく
異様に明るい雰囲気であるとか
エル○ス、シャ○ル、グッ○、ケ○ゾー
コムサ・デ・○○、といった
DCブランドブームであるとか
大手デパートグループが吹聴する
おいしい生活、であるとか
ディスコのボディコン、お立ち台ギャル、であるとか
ある種の人には最高で、ある種の人には
最悪の時代だったわけです。
インターネットなんてまだなかったから
そういった異常に明るい情報に
日本中が囲い込まれてしまっていたのです。
人前ではいやでも、明るいノリ、でいなければ
なりませんでした。明るさの全体主義、の時代でした。

何も考えない方が幸せになれる、という
おかしな時代でした。
恋愛至上主義の時代で
恋人いない歴一年、とか
恋人いない歴五年、とかいう
おかしな言葉が出てきたのもこの頃でした。
恋愛は個人的なものなので、好きな人ができなければ
何年恋人がいなくても構わないはずなのですが
当時は、恋人がいない人、は
まるで、人格に問題があるのだ、とでも
言われかねない時代でした。
クリスマスに一人は格好悪いから、と
とりあえずたいして好きでもない異性と付き合って
しまった人も多いと思います。
こうして書いてみると、本当に80年代は、狂乱、の時代
だったわけですね。僕は、明るさの全体主義、と名づけたい。

あの頃は、社会の敷いたレール、が永遠に続くのだ
という幻想がまだあって、受験戦争に打ち勝って
大学に合格したら合コンで恋人作って
適当に遊んだりして、それから企業社会に入って
60まで勤め上げたら、老後は庭の盆栽をいじりながら
今の若い人達は、などとたまに小言を言いながら
じいさんや、ばんさんや、などとやって
死んでいくのだろうな、というイメージが
できてしまっていたのです。
今となっては考えられませんが
本当にみんなそれが当たり前だと思っていたのです。
要は大量の嘘の情報に囲い込まれて
上手く刷り込まれていたわけです。

そんな異様な、明るさの全体主義、の時代にあって
オシャレな恋愛賛歌の歌ばかりが溢れる
ミュージックシーンに突如
子汚い格好をした四人組が現れたのでした。
それがブルーハーツだったのです。
ブルーハーツは衝撃的でした。
ブルーハーツの子汚い4人組は
ボーカルが、破戒僧
ギタリストが、文学者
ベースが、幸福の科学
ドラムが、仏教徒
という、まさに神がかったメンバーで
構成されていました。
バブルの、明るさの全体主義、の時代に
あって、コテコテの形而上学の詩を
それまでの、女の子にモテたいぜ、的ロックの対極にある
パンクロックというスタイルで提出したわけです。
モテテたまるか、という感じでした。

ブルーハーツが、何らの理念も
崇高な使命感も持たない国家の、成金趣味的繁栄
つまり俗に言う、バブリーな雰囲気、についていけなかった
当時の繊細で純粋で誠実な若者達の
心を捉えたのはよく分かります。
僕もその一人だったからです。
つまり僕は、繊細で純粋で誠実な若者だった、と
言っているのですよ。フフフ……。

でも繊細で純粋で誠実な若者だった僕は
ブツーハーツの引退後
結局何も変わらなかったのだな、と
ある種の喪失感を感じたのを覚えています。
一時の開放感、を味わったものの
受験戦争とか社会の敷いたレールとか
バブリーな雰囲気とかは、全く変わりませんでした。
それを考えると、ブルーハーツ解散後
多くのファンがオウムに流れてしまったのも
分からなくもありません。

僕は地下鉄サリン事件のニュースを見た時
笑えなかったのを覚えています。
マスメディアは、例によってオウムを
徹底的に村八分にしていましたが
僕はまかり間違ったら、あそこにいたのかな、という
恐怖感を感じてしまったのです。
彼らと僕との違いは、高学歴かどうかだけかも
しれないな、と思ってしまいました。
そう考えると、中学・高校とも
偏差値25で通して本当によかったな、と
今心から思います。

僕はマス・メディアも嫌いですが
オウムが押しかけてくる、第四の権力、テレビカメラに
対抗して、8ミリビデオで報道陣を
撮影していたのを今でも覚えています。
僕はあの気持ちがよく分かる。
マリリン・マンソンの言う通り
あの頃は、まだインターネットなんか普及していなくて

GOD IN THE TV!?

なメディア状況でした。
テレビによって全てが裁かれていました。
抗弁権はありませんでした。
マスコミを敵に回したらもう終わりでした。
オウムが起こした、松本サリン事件、で
マスコミによって容疑者であるとされた河野義行さんは
社会的信用を一気に失ってしまいました。
河野さんは、むしろ、松本サリン事件の被害者、だったのです。
なのに、河野白状しろ、という手紙さえ来たそうです。
テレビによって裁かれてしまったのです。
そしてそれは、誤審、でした。
まさにマリリン・マンソンが言う通り

GOD IN THE TV!?

なメディア状況でした。
一応裁判制度を確認しておきますと
刑事事件の場合
警察が逮捕して、容疑者、となり
検察によって裁判にかけられて、被告人、となり
裁判官の判決が出てから、有罪、となるわけです。
逮捕された段階では、あくまで疑われている
容疑者、に過ぎないわけです。
詳しくは僕著、仙台高等裁判所、のエッセイを
ご参照下さい。
その過程にある人を、マスコミがジャンジャン
書き立てて、容疑者の少年時代のアルバムや文集まで
持ち出してきて人格攻撃を加え、村八分、にするというのは
近代国家では許されないはずなのです。
マリリン・マンソンのように

GOD IN THE TV!?

と中指を立てたくなってしまいます。
あんたら、神、なのか? と。
日本の警察官や検察官は世界一優秀で
裁判まで持ち込んだ事件の、ほぼ100%が
有罪になる、という時代が長く続いてしまったために
そうなってしまったのかもしれませんが
現在のように治安が悪化してくると
警察官や検察官の間違いも増えてくるでしょうから
逮捕された時点で、犯罪者、と決め付けて
マスコミがあおるようなことはできなくなると思います。
僕もたまに時事問題を書くので、
その辺は気をつけなくてはいけません。
間違いを指摘されたら僕はすぐに訂正します。
これからは権威を守るために自分の間違いを認められない人は
生きにくくなるでしょう。というか信用されなくなる。
僕は最近、さっさと間違いを認められる人、の方が
間違いを隠して権威を保っている人、よりも
信用できるような気がするのです。
人間は間違うのだから、間違いを指摘された時、
さっさと認めて訂正できる人の方が信用されるように思うのですが
学校の先生とか、警察官とか、官僚、という人達は
こういうのが最も苦手のようです。
官尊民卑、の時代があまりにも長く続いてしまったため
官が偉い、という意識があるのでしょう。

お代官様! というのは、江戸時代の封建制度の名残です。
近代国家においては、タックスペイヤーである
市民、が主人公なのです。
確かに公の仕事に携わる、官、に間違いがないように
勤めるのは大切ですが、間違いを指摘された時
意地になって隠そうとすると、ますます信用されなくなります。
そういった意識改革のコストも考えると
現在の混乱状況が落ち着くには
あと10年はかかるだろうと思ってしまいます。

とまあ、そんなブルーハーツの暗い面から
オウムの暴走まで書いてきたわけですが
僕は、オウムが、霞ヶ関、へ突っ込んだのは
象徴的だな、と思うのです。
戦後日本の高級官僚支配への抵抗だったのだと思います。
誤解されると困りますが、僕はオウムを
擁護しているものではありません。
ただ、ある社会的事件が
何かを象徴していることはよくあることです。

それらの全てが、戦後日本の政治が
理念、も、崇高な使命感、も示す事をしないで
或いは議論さえしないで
ただGNPが伸びればいい
近代化・都市化していけばいい
金がありゃいい
という成金路線をとった事からきているのでは
ないかと思うのです。
最近明るみになる事件を見るにつけ
国政の舞台が、族議員の跋扈する利益誘導の場と
化してしまっていたのだな、とつくづく思います。
それは、政治屋、であって、政治家、ではありません。

理念なき国家は滅ぶ、のです。
人はパンなしでは絶対死にますが
パンのみで生きるわけでもないのです。
経済成長さえしていればよい、というのは間違いでしょう。
サリン事件の年に、野茂英雄投手が
日本中で馬鹿にされたり冷やかされたりしながらも
海を渡って成功してしまったのも象徴的でした。
やはり海外の事を一切考えずに
日本の中だけで、みんなと一緒に、盛り上がっていたのが、
バブル、なのでしょう。
2003年現在、海外と関われる可能性のある日本人には
希望、があります。国内だけで考えていると
息がつまりそうになります。

小泉首相のもとで進められている
構造改革、を、70年代にやっておけば
何の問題もなかったというのは
以前も述べました。
あの頃一部ではソビエト連邦の崩壊は
予見されていたのだし、日本は戦後復興から
高度成長期を経て、オイルショックで
一息ついていたのだから
戦後復興期に形成された、高級官僚、を中心とした
緊急時・復興型の戦後システムの改革に
着手しておくべきだったのだと思ってしまいます。
混乱の中にあって、優秀な官僚を中心として
一気に復興へ向かわせるのは手ですが
社会が落ち着いて安定してきたらむしろ邪魔になります。
あまりに強力な権限が長く続くと
不正の温床、になります。
世界一優秀とされていた大蔵官僚の
ノーパンしゃぶしゃぶ、も象徴的と言えば
象徴的でした。

政治の場で70年代に、現在小泉政権が
進めているような、霞が関の権力を
政治に場に取り戻す、という流れが起きていれば
オウムもブルーハーツも出なかったと僕は思います。
そして僕も、小説家を目指したり
することはなかったのかもしれません。
でも歴史に、たら、れば、はないのだから仕方がありません。

歪められてしまった精神は、芸術の場で表現し
歪んでしまった社会システムは
政治の舞台で変革する。
それが理想的な近代国家の姿のような気がします。
そう考えると、歪められた精神、を
芸術として表現したブルーハーツは素晴らしいが
オウムが霞ヶ関にテロ攻撃をしかけたのは
間違いだ、となります。

そういった意味で、政治家が高級官僚から権力を
取り戻そうとしている現在の構造改革の
流れは支持できるような気がします。
議会政治の可能性が信じられている世界では
テロは起きないような気がするからです。
何を言っても分からないから一発おみまい、と
なるのが、テロ、でしょう。

今回の衆議院選挙では、官僚や業界と結びついた
族議員が相当落選したようです。
集団強姦する若者は元気があっていい、と発言した
例の老政治家も落選したようです。
民意の勝利でしょう。
歪んでしまった社会システムを議会政治の舞台で
解決していけば、テロ、は防げるはずです。

歩みは遅いですが、政治の機能が少しづつ回復して
きているような気がします。
政治家が尊敬される時代が戻ってくるかも
しれません。



-戦後日本システム崩壊の前兆(2)へ続く-
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関連

  
  
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