2003年7月1日火曜日

八木山動物園(5)猿はシェークスピアを書かない 2003.7.X 初出

人間社会は所詮猿山と変わらぬヒエラルキー構造に過ぎないのか、
そして人類は、猿から分離した単なる一動物種に過ぎないのか、と、
僕は八木山動物園のお猿さんコーナーの前で暗澹たる思いに
打ちひしがれていました。

でも僕はその時ある一つの事に気がついたのです。
猿山には本がない。お猿さんは本を読まないのです。
何を当たり前の事を、と思われるかもしれませんが
お猿さん達が猿山というヒエラルキー構造社会を形成する時、
理念なりイデオロギーなり共同幻想なりを
必要としない、という事に僕は気がついたのです。
つまりお猿さんは、古事記も日本書紀も
マルキシズムもコーランも新約聖書も旧約聖書も
企業約款も企業定款も合衆国憲法も日本国憲法も必要としないのです。
力の強い者が群れをまとめる。
ただそれだけ。
人間と猿や多くの動物達との違いは
きっとそこにあるのだ、と僕は思いました。

人間は猿ではないので
力が強いというだけではヒエラルキー構造を維持できなくて、
理念なりイデオロギーなり共同幻想なりを設定できないと、
その構造はすぐ壊れてしまう。
ここが猿山と人間社会の決定的違いだ、と
思いました。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
絶対にそうだ。

日本の歴史を見てみても、多くの場合
武力統一しただけでは支配者になる事は
できなくて
朝廷によってその正当性を保証してもらうことで
初めてヒエラルキー構造の頂点に立つことを
許されてきたように思います。

最近では世界最強の軍事力を誇る
アメリカ政府が掲げる、正義、というものの
理念が、どうも自国の利権に絡んだウサン臭い
ものらしいという事が明らかになり始め
アメリカ政府が世界の警察官として
君臨する事に嫌悪感を持つ人々が増えてきました。

猿山と人間社会のヒエラルキー構造の最大の違いは
きっとそこにあるのだ。
力が強いというだけではヒエラルキー構造の頂点に
立ち続けることはできなくて
人間がヒエラルキー構造を
形成する時最も大切なのは
その理念なりイデオロギーなり
共同幻想なりを提供する、言葉、なのだと。
言葉なのだ、きっと言葉なのだ。

かつてお猿さんに延々とタイプライターを打たせると
いう実験をした人がいたそうです。
お猿さんに延々とタイプライターを打たせて
そこにシェイクスピアの一節が浮き上がる
確立というのを計算すると、それは限りなく、0、に近く、
それは地球上に人類が誕生する確立と
同じくらい難しい事なのだそうです。
つまり猿はシェークスピアを書かないのです。
ダーウィンの進化論は部分的に的を
得たところがあっても
すぐそれが所詮人類は動物と一緒だ、という
ことにはならないのだと思います。
猿はシェークスピアを書かないし
猿はシェークスピアを読めないし
猿はシェークスピアを必要としていないのです。

人間の人間たる所以は、言葉、にあるような気がします。
初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。この言は、初めに神と共にあった
という聖書の有名な一説は真実なのではないか、と
僕は八木山動物園のお猿さんコーナーの前で
思いました。

僕は人類が類人猿や猿から決別する時
造物主の強烈な一発があったような気がして
仕方がありません。
造物主の強烈な一発によって
言葉や知性を獲得し、人類は獣の段階を脱した。
たぶんそうだ。
きっとそうだ。
絶対にそうだ。

ブルーハーツが、世界の真ん中で、という曲の中で
歌っていたように
きっと、歴史が始まる前、人は獣だったのだ。

じゃあどうして造物主は
知的障害者という言語や知性の弱い存在を
一定の割合で人間社会に発生するように
設定したのだろう、これは僕の小説のテーマの
一つです。
僕の小説のテーマもだいぶすっきりしてまいりました。
八木山動物園でキリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さんを観てホントに良かったと僕は思いました。

そんなキリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さんを気軽に見に行ける動物園が
身近にあるなんてやっぱり仙台は
素晴らしい街だな、と僕は思います。

小説に限らなくても企画のアイデアや
人間関係のトラブルなどで行き詰まってしまった時
人間社会の中だけでもがいていては見えない視点を
キリンさんやライオンさんやトラさんや
お猿さん達は示してくれる事があります。
しかも思いもしない角度から。

今度の週末はぜひ八木山動物園へ
行ってみましょう。


-八木山動物園-(完)