2003年11月1日土曜日

想像力を摩滅させるもの(4)アダルトビデオ 2003.11.X 初出

こうして書いてきてみると
人類の、想像力、を摩滅させるものは
映画やゲーム、テレビやCM、といった
広義の意味での、映像、なのではないかと
思えてきます。

20世紀は、映像の世紀、と呼ばれますが
よく考えると、19世紀には、映像、が
なかったわけですね。
人々が、映像、によって世界を知るように
なったのは、きっとフィルムや
テレビカメラの発達によってでしょう。
僕は自分が活字に関わろうとしているから
映像、を批判しているわけではなくて
どうヒイキ目に見ても、映像、は
人々の、想像力、を奪っているような気がします。

じゃあ19世紀以前の人々は
そんなに、想像力、があったのだろうか、と考えると
たぶん、あった、のだと思ってしまいます。
中世のキリスト教世界では、魔女狩り、という
恐ろしい私刑が行われていたようですが
ある人を、魔女だ、とまで思い込めるのは
想像力、によるものとしか考えられません。
そういう面では、20世紀に発達した、映像、は
無知による悲劇、を防ぐ役割を果たしている面も
あるように思います。知る権利は大切です。
北朝鮮の体制を崩すには
経済制裁を行ったりするよりも
韓国のTV映像を送り込んだ方が
いいのではないか、という人さえいます。

でも概して映像は楽です。
想像力、をあまり必要としません。
見たまんま、です。

見たまんまの映像、といえば
アダルトビデオ、俗に言う、エロビデオ、は
そのものずばり、です。
見たまんま、やってます、という感じです。

アダルトビデオ登場以前の
日活ロマンポルノ、などはまだ
本番シーンに持っていく前に
どうやって観客を興奮させようか、とか
どうやって本番してるように見せようか、という
工夫もあったのでしょうが
アダルトビデオ、はそのまんま
やってます、という感じです。
やっちゃってるので、想像力云々の話が
入りこむ余地がありません。

そしてその、やっちゃってる、アダルトビデオは
登場以来その内容が年々過激になるばかりで
成人男性である僕が観ても
何だか陰鬱な気分になってくるようなものが
増えていくばかりです。
現代はインターネットでアダルトビデオの
映像を簡単にダウンロードできてしまうので
こんなものを中学生くらいから観ている少年達は、
大人になったらいったいどんなセックスを
するようになるのだろう、と、老婆心ながら
心配になってきます。

僕は小学校の低学年の頃に、アダルトビデオ、なるものを
偶然見てしまったことがあったのですが
その時は気持ちが悪くなってしまったのを覚えています。
やはり子供にとって、アダルト情報、と呼ばれるものは
有害なのだと思ってしまいます。
子供がアダルトビデオを見ると、気持ちが悪くなる。
気持ちが悪くなる、つまりそれは、自然の摂理、なのです。
なのに現代では、アダルトビデオ、に限らず
エロ本はコンビニの明るい店内に堂々と置いてあるわ
家のポストにはアダルトグッズのチラシが
入っているわ、と、アダルト情報が溢れて
しまっています。
子供達にとってそういった情報は
気持ちが悪くなる、もののはずなのですが
どうして野放しになってしまっているのでしょう。
やはりマッカーサー元帥の、3S(セックス、スポーツ
スクリーン)政策で、日本人の、想像力、が
摩滅してしまったのだろうか、などと思ってしまいます。
アダルトビデオが出てきたのは確か
帝王こと、村西とおる監督が出てきた
1980年代くらいだったように思いますが
やはり80年代が日本文化が壊れる分岐点だったのかな
と思ってしまいます。

もちろんアダルトビデオが全て、悪、という
ことではないように思いますが
アダルトビデオが、性的なものに対する、想像力、を
摩滅させてしまっているのは間違いないでしょう。
ポルノ小説を、想像力、を働かせて読むより
アダルトビデオを観た方がずっと簡単に
性的興奮を得られるはずです。
そしてハリウッド映画やゲームやテレビと
同じで、想像力、を必要としない楽な行動を
繰り返していると、次第にその、想像力、が
摩滅していくのだと思ってしまいます。

その結果、多くの人の性的なものに対する、想像力、が
摩滅してきたので、ただ若い男女がセックスしているだけの映像では
金が取れなくなってきたのでしょう。
この場合も経済学における、限界効用逓減の法則、や
心理学における、マズローの欲求段階説、が
有効だったりするので、人間というのは全く困った造りをしているな、と
思ってしまいます。
限界効用逓減(ていげん)の法則、は、一杯目のビールは旨いが
二杯目以降はそんなに旨くはない、というものですが、
これがアダルトビデオにも適用されてしまうわけです。
つまり、もうただの若い男女のセックスは見飽きた、と
初期のアダルトビデオの限界効用が逓減し始めると
次は三人でセックスしている映像が見たい
四人でセックスしている映像が見たい……
痴漢・盗撮ものが観たい……強姦ものが観たい、と
いう需要が増えていって、アダルトビデオの内容が
年々過激化していく、という事になるわけです。

そして現在のアダルトビデオは、犯罪もの、と
呼べそうなものがほとんどになってしまった。
それらの、犯罪もの、も、あくまで、契約、に基づいた
企画、なのでしょうが
そういう映像ばかり観ていると、次第に
性的な犯罪にあった女性の、痛み、に対する
想像力、すら摩滅していくのではないか、と
思ってしまいます。
最近の日本社会では、セックス絡みの犯罪が
非常に増えているような気がしますが
アダルトビデオの、犯罪もの、が
その一因になっているのは間違いないような
気がします。

マルキ・ド・サド侯爵の、ソドムの百二十日、という
小説では、現在のアダルトビデオも真っ青の
すさまじい性行為が延々と繰り広げられています。
ちなみに、最近愛好者が増えたといわれる
SMプレイの、S、サディズム、は
サディスト、こと、サド侯爵、からきているようです。
ソドムの百二十日、というタイトルは
旧約聖書の世界で、堕落・淫蕩を繰り返し
神の怒りに触れて滅ぼされた、ソドムとゴモラの町、からきているのは
間違いないでしょう。

その、ソドムの百二十日、という小説においては
ちょっとここには書けないような
逸脱した性行為が、これでもか、これでもか、と
延々と繰り広げられていますが
そういった中で、人間の、獣性、を解放して
しまったらどうなってしまうのか
それを抑止するキリスト教の倫理観とは何か
やはりあまりに逸脱した性行為は
法律で取り締まるべきなのだろうか、といった
哲学的命題が発生してきます。
マルキ・ド・サド侯爵は
哲学的なことを考えろ、とは一行も
書いていませんが、余りに逸脱し過ぎた
性行為を延々と読まされると
どうしても、いろんな事を
考えてしまいます。
ソドムの百二十日、は、徹底的に逸脱した
性行為を描くことで、逆に倫理にいたって
しまっているのです。
万有引力の支配するこの地球上で
これ以上逸脱した性行為は不可能、という
究極のレベルに至っています。

でも現在のアダルトビデオのほとんどには
そういった思想性もなく
単に過激なだけ。

昔、阿部定事件という有名な事件があって、
その定(さだ)という情の濃い女性は
惚れた男のイチモツをチョン切ってしまった
そうです。
これは昭和初期に実際にあった事件なのですが
その阿部定事件をモデルとした映画などを
観ていると、うーん、と唸って
2.3日考え込まされてしまいます。

女性は怖いな

とか

あんまり女性をナメてると
手痛いしっぺ返しをくうのかな

とか

阿部定のような女性が
日本人女性の二十五%くらいになったら
きっとセクハラはなくなるだろうな

とか、色々と考えさせられます。
間違っても性的興奮は覚えません。

そういった阿部定の映画や
ソドムの百二十日、といった
小説を読んだりするのは
想像力、が要求されるので
非常に疲れます。
でもそういった疲れる作業によってしか
想像力、はキープできないのでは
ないかと思ったりします。

重苦しい映画を観たり
小説を読んだりするのは
とてもくたびれます。
わざわざ金払ってまで
重苦しい気分になりたくない、というのが
多くの人の本音でしょう。
僕だってそうです。
でも、想像力、を摩滅させるような
メディアに囲まれた現代社会にあって
人間にとって大切な、想像力、を
キープしていくためには
そういった、くたびれる作業、を
繰り返していくしかないような気が
します。

ソドムとゴモラ化してきたこの国が
滅びてしまわないことを祈ります。





-想像力の摩滅(5)へ続く-
http://digifactory-neo.blogspot.jp/2012/09/5200311.html