2003年6月1日日曜日

仙台高等裁判所 其の八 罪を憎んで人を憎まずは真なりや 2003.6.X 初出

僕は呆気に取られながら法廷を後にしました。
単純な僕は、被告人の女性の刑が情状酌量で
軽くなる事を願ってしまいました。
それと結構自分が世間知らずだな、とも痛感しました。

裁判官にしても検察官にしても弁護士にしても
凄い仕事をしている人達で、こういう裁判が日常的に
青葉区の片平で繰り広げられているのだ、という
事に無自覚でした。

法曹関係者は、どんな悲惨な案件でも細部に渡って
調べ上げ、それを条文に照らし合わせて提出し
裁判では表情一つ変えずにそれを訴えなければならない。
そして裁判官はそれにジャッジを下さなければならない。
民事事件ならまだしも刑事事件を担当してしまったら
日常的に刃傷沙汰に関わっていくことになります。

人が人を裁く。法治国家、近代国家では
そうする事で社会の規範を維持していくしか
ないのでしょうが、それにしても凄い世界です。
建前上は法を適用しているだけなのかもしれませんが
それでも裁判官とて検察官とて弁護士とて人間。
殺人犯に死刑の判決を言い渡す裁判官は
法の名の下に殺人を犯しているわけで
法治国家でなければ裁判官も殺人者、という
屁理屈も成り立ちます。

じゃあ近代以前はどうやって犯罪人の処罰や
争いの仲裁を行っていたのか、と考えると
きっと、首長の鶴の一声や
亀の甲羅についた焼け跡での占い
村八分、大岡裁き、宗教裁判……と
人間味はあってもどうしても恣意性の排除できない
方法を採っていたのでしょう。
そうなると近代の司法・立法・行政という
システムの方が優れているようにも思います。
近代社会は様々な矛盾を抱えていても
やはりこのシステムの中でやっていくしか
ないのだろうか、と僕は思いました。

罪を憎んで人を憎まず、とは言っても
信賞必罰を徹底しなければ
秩序が保てなくなるのが人間社会の常。
知に働けば角が立ち
情にさおせば流される
意地を通せば窮屈だ
まことに人の世は住みにくい。
夏目漱石も書いたように
それが近代社会の真実の姿のような気がします。


-仙台高等裁判所(完)-



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